アクセスカウンタ

<<  2015年11月のブログ記事  >>  zoom RSS

トップへ


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第23作『007/スカイフォール』(2012年)

2015/11/30 13:42
またしても映画スタジオのゴタゴタ(今回はMGM)に巻き込まれて、4年間の製作期間が空いたが、『慰めの報酬』が“作り急いだ”のだと考えれば、必ずしも長い時間ではなかったのかもしれない。

ちょうどムーア=ボンドの最初の2本の間隔が短くて、その後に『私を愛したスパイ』が大ヒットしたように、ダニエル・クレイグの3作目もシリーズ最大のヒットとなった。世界興収では10億ドルを越え、当時の歴代ベスト10に入っている。

『スペクター』が完成した今になって振り返ると、『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』をあえて1本に数えて、その後に『スカイフォール』『スペクター』が「3部作」的に作られたという見方もできないこともない。そう考えると、これはまさにバットマンにおける『ダークナイト』のような位置づけになる。

監督は『ロード・トゥ・パーディション』でダニエル・クレイグと組んだことのある、オスカー監督のサム・メンデス。脚本は『グラディエイター』でオスカーを獲ったジョン・ローガン(個人的には『スター・トレック/ネメシス』を台無しにされた憾みがあるが)。

再び140分を超える長さになったこの作品で、ボンドは冒頭で「ある女性」に撃たれて生死不明(ある意味『007は二度死ぬ』)となり、当然のことながら007というエージェントは存在しなくなる。その間、上司Mは「過去の亡霊」に脅かされて、MI6存続の危機、そして自身のキャリアの危機に晒される。

MI6が緊急避難的に本部を移すのは『ワールド・イズ・ノット・イナフ』につづいて二度目。ボンドが「生還」して、あらためて能力テストを受けるのは『ダイ・アナザー・デイ』と同じだが、前作まではまだ「新人」だったボンドが、ここではすでにベテラン(というよりもすでに「老兵」)扱いされる。

敵はアカデミー俳優(『スペクター』でもクリストフ・ヴァルツはオスカー俳優だ)のハビエル・バルデム演じるシルヴァで、『ゴールデンアイ』の006と『ワールド・イズ・ノット・イナフ』のエレクトラの要素を併せもつ、ボンドにとってというより、Mにとっての疫病神である。このあたり、過去にもあったアイディアを格段にうまく昇華している。

さらに新たに若い「Q」が登場してこれまで以上の活躍をし、「ミス・マネペニー」はどうなるだろうと思っていると、意外な展開で彼女も登場してくる。ここから先はあえてネタバレを避けるが、この作品のクライマックスからラストに至る展開のいちばんの意外性は「実に6年間、3作品もかけてやっとリブート完了なのか!」ということだった。やっと本来のボンド映画が再開するのだ、と半ば呆れながらも感嘆したことを憶えている。ここまで時間と手間をかけたシリーズ作品の“リブート”は過去に例がないといっていい。

ショーン・コネリーにとっての『ゴールドフィンガー』、ロジャー・ムーアの『私を愛したスパイ』──3作目がいかに「お祭り」になるかが重要だと以前に述べたが、『スカイフォール』はそれを遥かに突き抜けて「神話的祝祭」といった性格まで帯びてしまった。

そのため「これを超える作品を作るのは当分無理だな」という危惧を感じたことも確かだ。どう考えても次は『ダークナイト・ライジング』にならざるを得ない。ところが、いざ24作目のタイトルが公開されて驚いた。よもやまさかの「スペクター」復活。しかも堂々とタイトルで謳っているのだ。ダニエル・クレイグという男は何てラッキーなんだ!

監督と脚本のコンビも無事に再登板し、「祝祭」の次にはいったい何が待ち受けているのか描いてくれるのだろう。そして、それはこのシリーズがいまだ経験していない境地になるはずだ。

というわけで、皆様、ぜひ『007/スペクター』をお楽しみください!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第22作『007/慰めの報酬』(2008年)

2015/11/28 11:04
前作『カジノ・ロワイヤル』から2年という短いインターバルで久しぶりに製作された、クレイグ=ボンド第2作。前作がシリーズ史上初の「リブート作」だとしたら、こちらは初の「続編」(前作のラストシーンから話がつながっている)であり、前作が史上「最長」(143分)だとしたら、こちらは「最短」(106分)、前作が原作の「長編」をベースにしたなら、こちらは「短編」(小説の翻訳タイトルは「ナッソーの夜」。映画のタイトルが横文字でないのはほぼ20年ぶり)といった具合に、「対称的な」作品になっている。

前作の熱が冷めないうちに製作して、しかも今回は観客の回転がいい上映時間内に収めようという方針があったのだとしたら、それにはこの「後づけの前後編」というアイディアは悪くなかった。この作品のラストでようやくお馴染みの「ガンバレル・シークエンス」が登場した時、観客たちは一様にこれでシリーズのリブートは完成したと思っただろう。

前回の『バットマン・ビギンズ』に対して、今回最も影響を受けたのはマット・デイモンが主演し、前年に3部作が完結した「ジェイソン・ボーン」シリーズだ。早速そのアクション監督を招いたおかげで、アクションの迫力は前作を上回るものになった。前作で顕著になった「サーカスパート」の不足も指摘されたのだろう、これでもかというアクションシーンの数珠つなぎで全編が成り立っている。

『カジノ・ロワイヤル』ほどではないにしても、「ジェイムズ・ボンド映画」の「枠組み」そのものにまで踏み込んだ挑戦はつづいていたといっていいのだが、もはや観客はそれでは納得してくれなかった。前作に比べると、敵役もボンドガールも魅力が落ち、ボンドとの絡みも希薄に思える。前作でボンドが疑ったマチスという協力者も、おなじみCIAのフェリックス・ライターもあっさり退場してしまう。

「クォンタム」という謎の組織が思わせぶりなまま終わってしまったのも残念だ。今から考えると「スペクター」に代わる新たな犯罪組織として構想されていたのかもしれないが、その割に『スカイフォール』では一切言及されていない。ただし、「クォンタム」のキーマンだった“ミスター・ホワイト”が『スペクター』にも登場するようなので、この設定がどう回収されるのかは見どころの一つだといっていいだろう。

クレイグ=ボンドになってからの素晴らしいポイントの一つは、「やりっ放し」ということがない点だ。同じキャラクターを演じる役者が次々と代わる(ブロフェルドやライターがいい例だ)ということもないし、「あの話はどうなったんだ?」という話の連続性が無視される(第5作『007は二度死ぬ』から第7作『ダイヤモンドは永遠に』の流れが象徴的だ)こともない。「ボンド・サーガ」の文脈をきちんと管理していこうとするやり方は今の時代の流れに即したもので、一連の「アメコミ映画」に倣った方法論なのかもしれない。

結果的に『慰めの報酬』は、本来は4時間あった話の「後編」を観たというよりは、一旦完結した物語の「後日談」であるという感じの方が強かった。最新作『スペクター』も、初期には「2部作」になるという噂もあったが、結果的に(シリーズ最長を更新したとはいえ)1本に収まったのだとしたら、このあたりを踏まえた結論だったのかもしれない。(ダニエル・クレイグがそのアイディアを一蹴したという話もあるけど)

とにもかくにも『慰めの報酬』はヒット作としての水準は十分に維持した。そのおかげでやっと「複数代目ボンド」が「3本目」を迎えたのだ。そしてこの「3本目」というのが、このシリーズにとって何を意味するかは、これまでに十分説明してきたつもりである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第21作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006年)

2015/11/27 12:25
早いものでもう10年近くも前のことだから、6代目ボンドを襲名した当初のダニエル・クレイグがどれだけ不評だったか憶えていない人も多いだろう。金髪でしかも記者会見の際には髪を長く伸ばしていたから、どちらかというと敵の殺し屋という感じだった。(個人的にはクライヴ・オーウェンがボンドをやることを期待していた)

そしてまた原作の第1作『カジノ・ロワイヤル』が本家のシリーズとして映画化されるというニュースも意外だった。この原作は1967年に別のプロダクションで製作され、『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』のように正面から本家に対抗することなく、一種のスパイファンタジー映画として描かれた。中身よりもバート・バカラックの音楽の方が有名だ。

しかし、カビー・ブロッコリからプロデューサー業を受け継いだ子供たちが初めて選んだ新生ボンドが、原作者の処女作を題材にして、21作目を撮るというのは結果的にはすべてが上手く運んだといっていい。

確か日本でのキャッチコピーの一つに「ジェームズ・ボンドが007になる物語」といったものがあったと思うが、前年に公開された『バットマン・ビギンズ』に準じていえば、まさに『ジェームズ・ボンド・ビギンズ』。冒頭の「白黒シーン」に登場する彼はまだ00要員になるための「通過儀礼」を果たしていないのだ。

それゆえにシリーズ最大の「お約束」といってもいい、作品冒頭の「ガンバレル・シークエンス」もここでは未完成の状態であり、ラストシーンまで「ジェームズ・ボンドのテーマ」も登場しない。

ブロスナン時代の「掟破り」はあくまでもストーリー内容に関するものだった。ところがクレイグ時代になると「ジェイムズ・ボンド映画」の「枠組み」そのものが根底から見直されることになる。上記の2点に加えて、おなじみのキャラであるミス・マネーペニーやQも“まだ”登場してこない。(Mだけはジュディ・デンチが続投した)まさにこれは「新ジェイムズ・ボンド・サーガ」の第1作なのだ。

監督はブロスナンの第1作を撮ったマーティン・キャンベル。これもいい選択だった。脚本はニール・パーヴィスとロバート・ウェイドのコンビが書いたものを、ポール・ハギス(『ミリオンダラー・ベイビー』や『クラッシュ』で頭角を現していた)がリライトしたおかげで、びっくりするほど「大人のセリフ」が飛び交う作品になった。

原作は長編としては短いもので、共産圏の資金をカジノで運用する敵からボンドがバカラで勝利を収め、危機から脱出するものの、恋仲になった女性情報部員(実は裏切り者)の自殺に直面するというものだ。映画版も基本的にはそのストーリーラインで進行する。

ボンド映画は基本的にはアクション映画だ。しかもどちらかというと全編に渡ってアクロバティックなアクションが展開する「サーカス」のような映画だ。しかし、ここではその「サーカスパート」を冒頭の40分とラストの20分に集約させ、後はどちらかというと本来のスパイ映画らしい、動きを抑えた画面のなかに、登場人物たちの思惑がフツフツとたぎっているような雰囲気が強い。

こうしてダニエル・クレイグのボンド・デビューに対する不安は完全に払拭されることになった。とはいえ、興行的にはブロスナンの最終作『ダイ・アナザー・デイ』のレベルを維持した程度で、まだまだ満足できる結果ではなかったのだろう。そこで次作『慰めの報酬』では更なる「枠組み」の見直しが追求されるのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第20作『007/ダイ・アナザー・デイ』(2002年)

2015/11/26 12:50
シリーズ開始40年目にして第20作。それに合わせて3年の準備期間を経て登場したこの作品が目指したのは、第10作『私を愛したスパイ』の、あのお祭り感だっただろう。確かに盛り沢山の内容で、興収的にも一段格が上がった感じはあったのだが、ブロスナン・ボンドにとってこれが代表作になったのかと言われると、いささか歯切れが悪くなる。

まずは冷戦終結後初めて具体的な政治情勢を背景にした、つまり「北朝鮮」を取り上げたことが挙げられる。もちろんここでも北朝鮮内部にさらに悪い奴がいるという設定で巧妙に批判をかわしてはいるが、かなり大胆な設定ではあった。しかもボンドは彼らに捕らえられて、実に14ヶ月もの軟禁後、人質交換によって救出されるのだ。00エージェントとしての資格も剥奪された状況となり、途中で復帰するまでは『消されたライセンス』同様の「私戦」をつづけることになる。

敵役である北朝鮮のムーン大佐は、驚いたことに白人へと顔を変えてダイヤモンド鉱山の経営者グスタフ・グレーヴスになる。その彼が生み出したのが、イカロスというダイヤモンド衛星。完全に『ダイヤモンドは永遠に』のセルフパロディである。しかも衛星兵器の登場は『ゴールデンアイ』でやったばかりなのに。

ブロスナン・ボンドになって初めてアストンマーチンが登場。敵の殺し屋ザオも秘密兵器満載のジャガーに乗っており、特殊な車同士のカーチェイス(しかも氷上)というのは今までなかった。しかし、そのアストンマーチンが装備している「光学迷彩装置」となるとCGの出来栄えはともかく首を傾げざるを得なかった。CGの活用という意味ではボンドが氷山の崩壊から逃れるシーンも「使いすぎ感」が否めず、それがダニエル・ボンド以降の反省点になったことは容易に推測できる。

ボンドガールはNSAの女性情報部員ジンクス、『私を愛したスパイ』のパターンである。アカデミー賞を受賞したハル・ベリーが演じ、第1作『ドクター・ノオ』のハニー・ライダーばりの登場の仕方をする彼女には、シリーズ初のスピンオフ作品の製作が検討され、脚本も書かれたようだが、残念ながら実現しなかった。

さらにMI6の女性情報部員ミランダというキャラクターも登場する。これは軟禁された後のボンドを完全には信用していないMがお目付け役として派遣したもので、この当時は完全に原作版『カジノ・ロワイヤル』のプロットを援用したものだと思われた。おそらくまだ誰も、次回作が『カジノ・ロワイヤル』になるとは思っていなかったのだろう。

クライマックスシーンは『ゴールデンアイ』が地上の巨大望遠鏡、『トゥモロー・ネバー・ダイ』がステルス艦、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』が原子力潜水艦、そして今回がアントノフ輸送機とバリエーションに富んでいる。そこではボンド対グレーヴス、ジンクス対ミランダの2つの対決が平行して描かれ、ボンドガールの対等感は担保されている。

といった感じで、過去作へのオマージュの塊という意味では『私を愛したスパイ』に近い成功をしているのだが、今から考えるとそれはむしろ「過去の精算」だったように思える。

ブロスナンは21作目の出演も希望していたが、年齢的な限界(ロジャー・ムーアは例外として)もあり、キリよくここで退くことになる。思えば彼はアルバート・R・ブロッコリが最後に選んだボンド役者であり、「最後の遺産」と呼べるものだった。それが退場した後、次にどういう展開が待っているのか、後継プロデューサーたちがどんなボンド役者を選ぶのか、期待を持たせつつシリーズは4年の準備期間を必要とすることになる。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第19作『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』(1999)

2015/11/25 12:21
日本では「20世紀最後の任務」というキャッチフレーズで宣伝されたブロスナン・ボンドの第3作。「ワールド・イズ・ノット・イナフ」はボンド家の家訓で、原作小説の翻訳では確か「この世も足らず」と訳されていた。『ゴールデンアイ』といい、これといい、少々苦しいながらも面白いタイトルを見つけてきたなあというのが最初の印象だった。

これまで見てきたように、ボンド役者にとっては3作目がどう位置づけられるかによって大きく印象が変わる。そういう意味では「実験作」である今作と、無邪気なお祭り気分満載だった前作『トゥモロー・ネバー・ダイ』は順番が逆の方がよかったのかもしれない。

もっと言えば、第17作目がティモシー・ダルトンの3本目として製作され、ブロスナンの3本目がちょうど通算20作目に当たるように作られれば理想だったと思う。残念ながらそうはならず、この第19作は重要な3作目でありながらも、本当のお祭りは次の20作目にとっておくという微妙なポジションに位置づけられてしまった。

だからというわけではないが、ブロスナン時代の「掟破り」もここに極まれりという感じがある。その筆頭がソフィー・マルソーをボンドガール兼悪役に据えたことだ。これまでもそのパターンはあったが、今回は男性悪役ロバート・カーライルさえも食ってしまい、完全にすべての陰謀の黒幕として描かれている。前作が久しぶりに「漁夫の利」作戦だったのに対し、今回は黒海の「石油パイプライン」を巡る「価格操作」作戦が展開するが、これは彼女でなければ描けなかった犯罪なのだ。

そしてあろうことか、彼女はボンドの手によって「直接」殺されるのである。これまでは『サンダーボール作戦』のファティマにしても『ゴールデンアイ』のゼニヤにしても、敵の力を利用して「間接的に」倒すというのが「お約束」だった。最初にこのシーンを見たときには、ちょっとした衝撃を受けた。

この作品から脚本に加わったのが、ニール・パーヴィスとロバート・ウェイドという二人組の脚本家で、これ以降シリーズのアクション映画としての骨格部分を作り続けている。前回登場した作曲家デヴィッド・アーノルド同様、ボンド映画を観て育った年代が新たな血をシリーズに注ぎこみはじめたのである。作っている側も「ボンドが女を撃つ日がくるとは」と驚いていたのかもしれない。

ソフィー・マルソー演じるエレクトラの登場は、彼女の母親的存在だった「M」をも物語に引き込んできた。Mが誘拐されるというプロットは、実は原作者イアン・フレミングの死後に書かれた『007/孫大佐』にも出てくるが、Mが女性になったことで大きくその意味合いは変わった。残念ながらここではまだ「サブプロット」に過ぎないが、やがて同じテーマが本筋に据えられるのが『スカイフォール』なのだ。

もう一つの大きな要素は、第2作以来「Q」を演じてきたデスモンド・リュウェリンの引退だろう。すでに初代マネーペニーはロジャー・ムーアとともに引退していたから、彼の退場とともにシリーズを支えてきたメンバーは完全に入れ替わってしまったことになる。「大人になれ、007」と言える人物はもはや「女性M」以外にいなくなってしまった。

彼のラストは印象的なシーンとしてしっかり描かれ、「モンティ・パイソン」メンバーのジョン・クリーズがあとを引き継いだが、ダニエル・クレイグ時代になると一旦「Q」の役割自体がなくなり、『スカイフォール』においてようやく復活することになる。後継プロデューサーたちは、ようやくここで真のフリーハンドを手に入れたといってもいいだろう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第18作『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997)

2015/11/24 11:27
前作から2年後に登場したブロスナン・ボンドの2作目。製作がふたたび軌道に乗ったことを実感させてくれた作品だが、製作中に偉大なプロデューサー、アルバート・R・ブロッコリが死去し、ここからは実質的に義理の息子のマイケル・G・ウィルソンと実娘バーバラ・ブロッコリによる制作体制になった。この転換点がなければ、おそらくダニエル・クレイグがボンドになることはなかったのではないかと思われるが、それはまた別の話。

今回は『007は二度死ぬ』や『私を愛したスパイ』によく似たスケールの大きな話で、久々に「漁夫の利」を狙った敵の作戦が進行する。珍しくボンドが海軍の軍服を着用している点も似ている。

ただし、対立させられるのは今や「米ロ」ではなく中国とイギリス。しかもそれを操るのは一人のメディア王である。当然のことながら、「共闘」するボンドガールもKGBやCIAではなく中国の公安部員になった。

ロジャー・ムーア時代から徐々にボンドガールの存在は変わってきたが、前作で女殺し屋として登場してきたゼニヤといい、ここでのウェイ・リンといい、ボンドとの「対等感」は半端なレベルではなくなってくる。例えば『私を愛したスパイ』に出てきたアニヤが「少佐」だったのに対して、ウェイ・リンは「大佐」──ボンド「中佐」より格が上なのだ。

また今作は実に30年ぶりに上映時間が2時間を切るというタイトな内容になっていて、さらにボンドは48時間で英中開戦を阻止しなければならない。この作品から音楽を担当することになったデヴィッド・アーノルドが喜々としてボンドのテーマを打ち鳴らしてくれるので、非常にテンポもよくお祭り感のある仕上がりになっている。130分を越える作品が続いてきたなかで、これも一つの「掟破り」といっていいだろう。メインとなる3つのアクションシーンがいずれも「バックシートドライバー」というキーワードで共通しているのも面白い。(詳細はぜひご覧になってください)

さらに「そういえばこれまでなかったな」と思わせたのが、敵メディア王の「妻」が以前にボンドと関係があり、ボンドが彼女を利用するために接近するという展開だ。これまでの敵には「愛人」はいても、明確に「妻」が設定されたことはなかった。ボンドが意図的とはいえ「不倫関係」に陥ることもなかった。

ブロスナン・ボンドにおいてはこれ一回だけだが、実は『カジノ・ロワイヤル』のクレイグ・ボンドではむしろ「人妻しか相手にできない」という性格設定にさえ使われている。この辺り、あくまでも「ファミリー映画」を目指していたアルバート・R・ブロッコリの縛りが徐々に緩んできたようにさえ感じられるから面白い。

監督は前作のマーティン・キャンベル(のちに『カジノ・ロワイヤル』でダニエル・クレイグのボンドデビューを支える)から、ロジャー・スポティスウッドに交代。これ以後、『スカイフォール』のサム・メンデス監督が『スペクター』の連投を承諾するまで、毎回監督が変わるのもこれまでにはなかったことである。(『女王陛下の007』のピーター・ハントを除けば、4人の監督が最低3本以上を手がけてきた)

この辺りから製作コストも跳ね上がり2年に1本という製作ペースも厳しくなってきて、同時にアクションシーンの撮影がいくつも平行して進むようになったらしく、監督よりもプロデューサーのコントロールの比重が高まっていたのかもしれない。ブロスナン時代は一見シリーズの安定期にも見えていたが、実はあらゆる試行錯誤が続いていたのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第17作『007/ゴールデンアイ』(1995)

2015/11/23 16:03
実にシリーズ最長のインターバル、6年という年月を経て製作された17本目。本来は4代目ティモシー・ダルトンを念頭に置いて作られた企画が、「東西冷戦終結」という世界の動きに翻弄されながら、5代目ピアース・ブロスナンを迎えてようやく完成となった。

6年のあいだに起きた新たな「訴訟」の話などはそれだけで十分面白いのだが、ここではあえて割愛する。(以前の「スペクター問題」なんかよりはるかにややこしく、シリーズの継続が根底から危機に晒された状況だったことは間違いない)というのも、ここから先すべての作品は第23作『スカイフォール』に向けた壮大な伏線として考えていった方が、このシリーズを巡る文脈がよくわかるからだ。

まず、今になって振り返ってみると、ここではボンド役の交代以上に「三代目M」の就任の方が重要だったのではないかと思われる。当時実際にMI6の長官が女性だったことを踏まえて、配役されたのはジュディ・デンチ。

それ以前もイギリスでは有名な女優だったのかもしれないが、M役を引き受けて以降、何度もアカデミー賞にノミネートされた(もちろん受賞もした)大女優が起用されたことで、ボンドにとってMの存在は「父性」から「母性」へと大きく切り変わる。母性といっても、実にイギリス的なおっかない母性である。この変化がなければ絶対に『スカイフォール』はありえなかった。

次に、これまではほとんどフィーチャーされなかったボンド以外の00エージェントが、あろうことか悪役として登場したこと。「冷戦終結」とともにボンド映画はもう成立しないのではないかという議論もあった。確かに「スパイ」にとって最大の敵が消滅したように「見えた」ことは確かだったが、賢明なことにこのシリーズは明確にソビエトを敵に据えることはしてこなかったので、ロシアに変わっても十分物語を紡ぐことができたのだ。

006ことアレック・トレヴェルヤン(何度聞いても憶えられない)はソビエトの負の遺産「ゴールデンアイ」衛星(元ネタは原作者がジャマイカに持っていた別荘の名前)が発する電磁パルスを使ってロンドンのあらゆるシステムを破壊し、その間に金融オンラインデータを操作して莫大な金を得ようとする。取り壊されたレーニン像が転がる廃墟で、9年ぶりに006と007が再会するシーンは世界の大きな変化を象徴的に表していた。

ついでにいうと、この作品ではプレタイトルシークエンスで2人のエージェントの共闘が描かれ、タイトルが終わると「9年後」という字幕が出る。この作品の公開が1995年なので9年前は1986年、先代のティモシー・ダルトンの登場以前ということになる。プロデューサーのカビー・ブロッコリはシリアスなダルトンタイプよりもライトな演技ができるブロスナンの方が気に入っていたようで、だからとは言い切れないが、ダルトン・ボンドの存在を無かったことにしてしまったようにさえ感じる。ソビエト崩壊は1991年だから、1990年の設定にすれば辻褄があった話なのだ。

ボンド以前は『探偵レミントン・スティール』で華奢な男を演じていたブロスナンだが、いざ登場してみると体もがっしり作られていて、演技も非常にバランスが取れていた。インフレ換算をすれば少々変わってくるのだが、当時『ゴールデンアイ』は北米市場で初の興収1億ドルを突破し、人気は再燃、6年間の悪夢は終わった。しかしその後の彼の時代はどちらかというと「掟破り」の連続で、それについては次回以降見ていくことにする。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第16作『007/消されたライセンス』(1989)

2015/11/21 10:34
前作『リビング・デイライツ』と今回の作品にあいだで、「アクション映画の歴史に起きた重要な出来事」とは何か? それはおそらく『ダイ・ハード』が公開されたことだろう。

そもそもティモシー・ダルトンの登場により、シリアス路線を模索しはじめていたボンド映画は、敵役(ロバート・ダビ)も音楽(マイケル・ケイメン)も『ダイ・ハード』から連れてきて、ボンドがライセンスを抹消されて個人的な復讐に走るハードな作品を作った。

ただし、この年の夏には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』と『リーサル・ウェポン2/炎の約束』という2つのアクション超大作の封切りが重なり、この作品は予想以上の苦戦を強いられることになる。日本ではもっとひどくて、夏休みでも正月でもなく「秋」に公開という何とも中途半端な扱いにさえなった。

『スカイフォール』が50周年だったことを考えると、前作『リビング・デイライツ』で歴史は折り返し、ショーン・コネリー&ロジャー・ムーアの「神話の時代」は終わった。ここからのジェイムズ・ボンドはあらゆる意味で「生身」の戦いを強いられていくのだ。その最初の挑戦者がティモシー・ダルトンであり、その最初の答えが「興行的惨敗」だったことは非常に面白い。だが、「面白い」と言えるのは25年経った今だからであり、当時は1ファンとして相当な危機感に襲われた。

ついにタイトルも原作を離れて、007の代名詞とも言える「殺しのライセンス」(原題は「Licence to Kill」)となった。邦題『消されたライセンス』は、確定前の原題「Licence Revoked」から来ている。直訳すれば「取り消された許可証」となるのだが、どうやら運転免許の「免許取り消し」のニュアンスが強いらしく直前になって変更になった。

当初は中国を舞台する予定だったがうまく行かず、おまけにメキシコのスタジオが安く使えるというので南米の架空の国を舞台に「麻薬王」との対決が描かれる。原作はないものの、長編『死ぬのは奴らだ』の中からまだ使われていなかったアイディアを加えた。それがボンドの旧友、CIAの情報部員であるフェリックス・ライターの再登場である。

再登場といってもライターは前作にも出ている。どういうわけかこのシリーズではこのキャラクターの扱いが悪く、これまでは毎回違う役者が演じてきた。ところが今回は遥か16年前に『死ぬのは奴らだ』でライターを演じたデビッド・ヘディスンが初めて2度目の登板となった(その後、ジェフリー・ライトも2度演じている)。だが、可哀想に新婚のライターは妻を殺され、自分はサメに片足を食われてしまう。そして、これがボンドの暴走を誘発するのである。(さらには映画自体のレーティングも上げてしまった)

これにはとうとうMも「免許取り消し」を命じるしかなくなる。かつて『女王陛下の007』ではマネペニーがボンドの辞表を書き換えて「休暇願」に差し替えてくれた。だが今回は本当に職を追われる。その後、5代目も6代目も似たような憂き目に会うが、これがその嚆矢である。そして、「浪人」となったボンドは、脚本を書いたマイケル・G・ウィルソンが明言したように黒澤映画『用心棒』の「三十郎プロット」を借りた巧妙な展開で「麻薬王」の懐へと飛び込んでいくのだ。

このあたり、確かに旧来のボンド映画にはなかった緊迫感で、「ファミリー映画」として楽しみにしていた観客たちが違和感を拭えなかったことは間違いない。だが、一方でボンド映画が必死に新たな局面を切り開こうとしていることに面白さを見出した者としては、興行結果、そしてその後にシリーズを襲った事態は「あまりにも」な展開すぎたのである。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第15作『007/リビング・デイライツ』(1987)

2015/11/20 14:32
個人的に経験した初めての「代替わり」。ティモシー・ダルトンの名前は全然知らなかったが、20歳も若返ることは大歓迎だったし、運良くこの作品はLAのチャイニーズ・シアターで初日を見ることができ、アメリカ人の暖かい歓迎ぶりに接したことも違和感を無くしてくれたように思う。

4代目ボンドはわずか2作品の出演で終わってしまった。だが、2代目ジョージ・レーゼンビーのように本人の評判が悪かったわけではなく、極めて政治的な理由による降板だった。ティモシー=ボンドの3作目(「The Property of A Lady」?)の準備は進んでいたようなので、つくづく実現しなかったことが残念でならない。

結果的に残った2作品(『リビング・デイライツ』と『消されたライセンス』)は、まるで正反対の性質を持っていると言えるほど、作品のタッチが異なる。前者はまだ後任が決まっていない時期にロジャー・ムーアを念頭においたシナリオが執筆され、一方後者は完全にティモシー・ダルトンのキャラクターを活かして新たな方向性を探ったためである。

『リビング・デイライツ』がロジャー・ムーアでも演じられたとするなら、『消されたライセンス』は6代目ダニエル・クレイグでリメイクも可能だと思う。そういう意味でティモシー=ボンドはまさにシリーズの大転換期を「跨いで」活躍していたといっていい。

まずは『リビング・デイライツ』だが、原作は短編の「ベルリン脱出」。その短いシチュエーションをシナリオはうまく取り込んで発展させている。唯一残念なのは日本語タイトルで、もうちょっと気の利いたタイトルが捻り出せれば、もっと記憶に残っただろうと残念に思う。とはいえその原題「The Living Daylights」も、ごく限られた使い方をされる言葉のようで、あえて日本語でいちばん近い言葉を探すなら、当時確か『スクリーン』誌に載っていた日本語訳の「度胸」が近いような気がする。

話の流れは非常に凝っていて、シリーズ内の系譜でいえば『ロシアより愛をこめて』から『ユア・アイズ・オンリー』につながる「原点回帰」の、一筋縄ではいかないスパイスリラー的展開を見せる。要するに、悪い奴が最初から悪い奴には見えないパターンである。

ただし、そこに「アストンマーチン」を使った小気味のいいアクションと、アフガニスタンの空を舞台にしたダイナミックなアクション(ゴールデンゲートブリッジほどバカバカしくはないが、例によって「誰かが実際にやっている感」バリバリの息を飲むスタント)が加わって、新しいボンドの登場回として実にバランスのいい傑作となり、シリーズ25周年・15本目となってもボンド神話が健在であることを示してくれた。

面白いのは、当時のエイズの流行を受けて、メインのボンドガールが一人に限定された話になっているという評判が立ったこと。劇中で堂々とボンドがタバコを吸っていること(5代目ピアース・ブロスナン以降は確かなくなったと思う)。さらに「旧ソ連」の将軍が登場する最後の作品になったことも感慨深いものがある。

ソ連による実際のアフガニスタン侵攻を背景にしている点も興味深い。これまで同様、ソ連には悪い奴もいれば良い奴(少なくとも話が分かる奴)もいる設定にして慎重に政治性を回避しているが、一方でボンドが明らかにアフガンゲリラに肩入れしていたことは、今から考えればかなりの皮肉だ。

上司M(この頃は2代目ロバート・ブラウンが演じていた)との「確執」が明確になってきたことも挙げておくべきだろう。次回作ではライセンスを取り上げる人なのだから。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第14作『007/美しき獲物たち』(1985)

2015/11/19 11:36
いよいよロジャー・ムーア=ボンドの時代の終わり。公開当時58歳。あと一本やったら「還暦ボンド」になるところだった。(そう考えると60歳を過ぎて『あぶない刑事』をやろうという“あの二人”はすごい)

前作の貫禄勝ちを受けて14作目も『ゴールドフィンガー』パターン。アカデミー賞俳優クリストファー・ウォーケンを敵役マックス・ゾーリンに迎え、さらには女殺し屋メイ・デイにはグレース・ジョーンズを起用。これまでにボンドガール2人を排出した『おしゃれマル秘探偵』(原題は「アベンジャーズ」!)の主役ジョン・スティードを演じたパトリック・マクニー(たまたまWikiで調べたら、何と今年の6月に93歳で亡くなっていた)まで登場して万全の布陣。

「バラと拳銃」という原作中もっともダサい邦題の短編が原作だが、今回は中身もほとんど使われていない。映画の日本語タイトルもなかなか決まらず(「公募」していた記憶があるのだが、定かではない)、結局、ビデオスルーのB級作品みたいになってしまった。

当初は「ハレー彗星」を地球にぶつけようという、まさしく『アベンジャーズ』みたいなアイディアが検討されていたようだが、結果的には人工地震でシリコンバレーを崩壊させるという敵に計画に落ち着いた(?)。これまた結果的にゾーリン産業の価値を相対的に上げようという「価格操作」作戦で、ゴールドならぬ「シリコンフィンガー」なのである。

ゾーリンという男は第二次大戦中に東ドイツでステロイド剤を投与されて「作られた」ある種の天才で、発想としてはアメコミっぽい感じ。そういう意味でクリストファー・ウォーケンはかなりの適役ではあった。

舞台も久しぶりにアメリカ・サンフランシスコが登場し、本物の市庁舎で撮影されている。ただ、どうしてこのシリーズはアメリカを舞台にすると「ドジな警官」を出したくなるのか、今回も自分はジェイムズ・ボンドだと名乗るボンドに対して、「だったらおれはディック・トレイシーだ」と答える警察官との、消防車を使ったカーチェイスを展開している。

これには2つ問題があって、1つはまったく無駄なアクションシーンであること、2つ目は秘密情報部員ジェイムズ・ボンドの名前が一般人にも知られていることだ。もちろん映画的なギャグなのだが、これによって作品のリアリティは大きく下がった。『ユア・アイズ・オンリー』からわずか二本でもうこれか、といった感じは否めない。

サンアンドレス断層に近い鉱山を舞台にしたクライマックスは、「インディ・ジョーンズ風」だと揶揄された。確かにインディは当時、ボンドの最大のライバルだったといっていい。しかものちにショーン・コネリーが出演した『最後の聖戦』の大ヒットは、第16作『消されたライセンス』に致命的な影響を与えてしまうのだが、それはまた別の話である。

『美しき獲物たち』が捨てがたいのは、ゾーリンとの最後の対決があるからだ。その舞台となるのは何と「ゴールデンゲートブリッジ」の主塔の上、『Xメン』ならいざ知らず、生身の人間であるジェイムズ・ボンドの戦う場所ではない。しかし、ゾーリンが「飛行船」を移動手段に使っているという設定を活かして、何とかそこまでたどり着かせ、シチュエーションは成立。そして、何より(ロジャー・ムーアではない)誰かが、実際に橋の上で格闘していることが、バカバカしくも清々しい映画的なリアリティを与えてくれるのだ。

「超人ボンド」としてふたたび振りきってしまったものの、ムーア=ボンドは最後まで楽しませてくれたといっていい。当然、その後にはまた「原点回帰」がやってくるのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第13作『007/オクトパシー』(1983)

2015/11/18 10:38
前作はロジャー・ムーアにとっての『ロシアより愛をこめて』であり、それがあるかないかでムーア=ボンドの評価は(少なくとも個人的には)ずいぶん変わる。だが、興行成績を考えるとその路線の継続は得策ではない。このシリーズにとって「原点回帰」というのはカウンターステアのようなもので、針路を真っ直ぐに修正するための方法論なのだ。

で、ふたたびシリーズは舞台こそエキゾチックなインド(欧米の観客には日本を含めたアジアやインドがかなり魅力的らしく『二度死ぬ』やこの作品をシリーズベストに挙げる人がいたりする)に変わったが、『ゴールドフィンガー』パターンを目指して進んでいく。

悪役カマル・カーンをバックギャモンで負かすシーンは、ゴールドフィンガーをゴルフで破るシーンの「丸写し」といっていいし、西ドイツ(そういえばドイツって二つに分かれていたんだよなあ)の米軍基地で事故に見せかけて核爆弾を爆発させ、米軍を撤退させようとするソ連軍の「タカ派」の作戦も、フォートノックス襲撃作戦同様、「価格操作」作戦のバリエーションと考えることができる。

残念ながら、いよいよロジャー・ムーアの「加齢」(あえて「老化」とはいいませんが)が深刻で、前作『ユア・アイズ・オンリー』でも長い階段を駆け上がるのに苦労していたが、今回は核爆発が迫っているのに車が捕まらず、仕方なく走りだすシーンが容赦なく老いを映し出している。なかなか米軍基地に辿りつけずハラハラさせようという狙いはわかるのだが、この一連のシーンがいちばんの弱みになっていると思う。さらにはメインのボンドガール「オクトパシー」(このネーミングも『ゴールドフィンガー』のプッシー・ギャロア級に問題視されたようだ)を演じたモード・アダムスは『黄金銃を持つ男』以来二度目の出演で、ムーアと年齢的なバランスをとっている。

シナリオは今回も「オクトパシー」と「所有者はある女性」の二つの短編からアイディアを借りているが、前者はオクトパシーという女性の背景設定としてのみ、後者はサザビーのオークションシーンの元ネタとして使われているだけで、珍しく「ストーリー原案」を他者(ジョージ・マクドナルド・フレーザー)に任せている。

だが、『オクトパシー』に関していちばん語るべきは、ショーン・コネリーとの「新旧ボンド対決」だろう。以前からシリーズを悩ませてきたケビン・マクローリーによる『サンダーボール作戦』のリメイク版『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』が、こともあろうにショーン・コネリー主演によってついに完成したのだ。過去に日本においては、公開が遅れた『ゴールドフィンガー』と『サンダーボール作戦』が1965年に、『007は二度死ぬ』とパロディ映画『007/カジノ・ロワイヤル』は1967年に公開されたが、いずれも今回の「対決」とは様相が違った。幸か不幸か夏と冬に分かれたが、ムーア=ボンドの最新作にコネリーの復帰作という「世紀の対決」に、否が応でも期待は高まっていった。

まあ、結果的に言うと「大山鳴動して鼠一匹」という感じでした。『帝国の逆襲』や『ロボコップ2』を手掛けた職人アーヴィン・カーシュナーによる『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』は大味というか『サンダーボール作戦』ほどのスケール感もなく、キム・ベイシンガーの出世作としての意味合いしかなかった。「ネバー・セイ」と言いながら、コネリーはこれで完全に「ネバー・アゲイン」になってしまった。

一方、『オクトパシー』は80年代ではシリーズ最大のヒット作となり、ロジャー・ムーアはさらにもう一度、老骨にムチを打つことになるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第12作『007/ユア・アイズ・オンリー』(1981)

2015/11/17 13:20
とうとう未映画化の原作長編が枯渇(『カジノ・ロワイヤル』はまだ獲得していなかった)してしまい、初めて短編のタイトルが使われた。邦訳は「読後焼却すべし」となっているが、さすがにそれを邦題に使うわけにも行かず、かといって以前書いた「あなたの瞳に」ではハーレクイン・ロマンスみたいになってしまう。80年代に入るとカタカナタイトルは増えてきたからさほど違和感はなかったが、これ以降このシリーズの「邦題」は苦戦を強いられることになる。

『私を愛したスパイ』『ムーンレイカー』と内容的なインフレがどんどん膨らむのをリアルタイムに観てきて、いきなり登場してきたこの作品には本当に驚かされた。シリアスとまでは行かないが、「冷戦」を背景にした、本来のスパイアクションに大きく舵が切られたからである。「こういうのも出来るのか」というのが当時の率直な感想で、何と「懐が深い」シリーズなのだろうと感心したものだった。やはりシリーズが長くつづくには「懐の深さ」が重要なのだ。(日本でいえば『相棒』シリーズがそうだ)

おそらく当時も「原点回帰」というキーワードが使われたと思うが、その場合の「原点」とは第2作『ロシアより愛をこめて』のことだ。「読後焼却すべし」に「危険」という短編と『死ぬのは奴らだ』から一部を借りてきたシナリオは、複雑かつ精密に作られている。

監督はこれまで第二班を担当してきたジョン・グレンに代わり、ここから連続5作品を撮ることになる。また脚本はベテランのリチャード・メイボームと、プロデューサーであるブロッコリの義理の息子マイケル・G・ウィルソンが共同で執筆した。

彼らがまずやったのは、ボンドが第6作で亡くなったテレサ・ボンドの墓参りをさせたことと、その帰路を襲ったブロフェルド(らしき男)に「どどめ」を刺すことだった。すでにロジャー・ムーアに交代して5作目ながら、あらためてシリーズ作品としての連続性を示すとともに、「禍根」ともいえるスペクター問題にあっさり終止符を打ってしまった。

さらに肝心なカーチェイスシーンがはじまる前に「ロータス・エスプリ・ターボ」を爆破してしまうということもやっている。これによりボンドは「シトロエン2CV」を借りて敵から逃れなければならなくなり、何とも新鮮なアクションシーンが生まれた。

元々アクションを担当する第二班監督だったジョン・グレンのおかげで、ヘリコプター、自動車、スキー、潜水艇、ロッククライミングとそれぞれに趣向を凝らしたアクションがつづくので、ほとんど中弛みすることがない。鮮やかな職人技を示したといっていい。

ストーリーも負けてはいない。『ロシアより愛をこめて』でボンドが追いかけた暗号解読器レクターとよく似たサイズの「自動目標攻撃システムATAC」を目標にした英国とソ連の争奪戦というシンプルな話だが、そこにギリシャ人実業家クリスタトスとその仇敵で密輸業者のコロンボという男の対立軸がうまく絡んできて、起伏に富んだ展開となる。

特にコロンボという男は、『ロシアより愛をこめて』のケリム・ベイを彷彿とさせるボンドにとって「父親的存在」となりうるキャラクターで、ロジャー・ムーアがもっと若かったら、その存在感が際立っていたと思われる。そういう意味でこの作品はダニエル・クレイグ主演の「リメイク」にも耐えうる作品だと思う。

自分の娘のような年齢のボンドガールとのラブシーンに辟易して、さすがのロジャー・ムーアもこれを最後に引退を考えていたようだが、様々な理由からそれはあと2作品延期となる。そのおかげで2年後、思いもしなかった「ボンド祭り」が開催されるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第11作『007/ムーンレイカー』(1979)

2015/11/16 11:29
ロジャー・ムーアが主演した7作本は大体2本ずつセットになっている(第12作だけちょっと外れるが)。つまり、ヒットしたらそのパターンをもう1本つづけ、その後、観客が飽きないように軌道を修正する。シリーズが完全に息を吹き返したほどの前作の大ヒットを受けて、それを踏襲しようとするのは当然の発想だと思う。

『私を愛したスパイ』の製作時にはまだ『ムーンレイカー』の映画化権が取得できていなかったので、当時のパンフレットには次回作は『007/あなたの瞳に』(後の『ユア・アイズ・オンリー』のこと)と記されていた。

ところが『ムーンレイカー』の映画化が可能になり、折しもアメリカでは「スペースシャトル計画」がいよいよ間近に迫って、その試験機が「エンタープライズ」と名付けられた(もちろん「スター・トレック」ファンの力によるもの)時期で、『スター・ウォーズ』が映画界を席巻した後だった。

原作のムーンレイカーは「大陸間弾道ミサイル」のことなのだが、ここでは当然、時代を先取りしたスペースシャトルへと設定変更された。これまで宇宙進出に関しては寸止めで終わっていたボンドがいよいよ宇宙に飛び出す、ある意味で究極のスケールになった。

ちなみに当時はCG技術はもちろん、本物のシャトルの打ち上げ映像さえなかった。作品中には白い煙を長い帯のように引いて上昇していくシャトルの美しい「SFXシーン」があるのだが、その白い煙が実は大量の「塩」で表現されていたという話を聞いたときには見事な発想力に驚かされた。

というわけで「掴み」はまったく問題なし。この段階でヒットは約束されたようなものである。そのせいか話の内容については非常に保守的──つまり前作の路線を大きく外れることはしなかった。まず冒頭のスタントシーンは前作同様、目を瞠るアクションにする。もっとも今回も「パラシュート無しで飛行機から突き落とされる」というこの5分間だけでも劇場に行く価値がある素晴らしいシーンであることは否定出来ない。当然、スタントマンはパラシュートを隠しているのだが、撮影のために88回も飛び降りたというスタントへのこだわりにはまったく頭が下がる。

前作のボンドガールが「ソビエト情報部員」なら、今回は「CIA女性工作員」。人類を滅亡させて前回は「海中」にユートピアを建設しようとしたのに対して、今回はいつの間にこんなものを作ったのか不思議な「巨大宇宙ステーション」がそれに取って変わった。

ロータス・エスプリこそ出てこないものの、ヴェネツィアの「ボンド専用ゴンドラ」は3段変化をするし、ダメ押しのボートアクションが南米イグアスの滝でも展開する。前作で「エジプトのミイラ館」を舞台に撮影されるはずだったがボツになったアクションシーンはヴェネツィアの「ガラス博物館」で復活。さらにはあの「鋼鉄の歯を持つ男ジョーズ」も再登場する。

シリーズの勢いと話題性が勝って特にアメリカ市場で大ヒットとなるが、行くところまで行ってしまったシリーズの「次」は何なのか、製作者たちも一抹の不安は抱いていたであろう。しかし、当時まだ中学生だった私はただひたすら、バカバカしいほどのスケールを持ったこの外国映画に酔いしれていたのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第10作『007/私を愛したスパイ』(1977)

2015/11/14 11:41
3代目ロジャー・ムーアのイメージを早く定着させようと焦った結果、前作は失敗、同時にシリーズ開始以来の共同プロデューサーが去り、残された原作も長編はあと1作(この時点では『カジノ・ロワイヤル』と『ムーンレイカー』の映画化権は入手できていなかった)でしかも「番外編」といった方がいい弱いストーリーの作品しか残っていない。普通に考えればまさに「潮時」だろう。ところが、シリーズはここで大きな勝負に出るのだ。

まず原作については、タイトルのみ活かして内容は一切捨てるという英断を下した。原作(ひらがなの「わたしを愛したスパイ」)における「スパイ」とは当然、ボンド以外にありえないのだが、映画版の「スパイ」は必ずしも彼とは限らない。ボンドのライバルにしてボンドガールでもあるソ連の女性情報部員トリプルXことアニヤ・アマソワ少佐だと解釈することもできるのだ。この設定がまず面白い(彼女の初登場シーンがよく出来ている)。

冷戦の最中にあって英ソ協調をテーマにするとなると、敵は『ロシアより愛をこめて』のように両者を手玉にとる相手が相応しい。ということで3作品ぶりに犯罪組織スペクターの再登場が検討された。しかもスペクター内で権力争いが起き、ブロフェルドの後継者として若いリーダーが誕生。彼はスペクターを先鋭的なテロリスト集団に変えてしまう、といったかなり時代を先取りした内容が予定されていたらしい。

ところが第4作『サンダーボール作戦』のあと10年間は映画化権を行使できなくなっていたケビン・マクローリーがこの頃、あろうことかショーン・コネリーとイギリスのスパイ小説家レン・デイトンと組んでリメイクの計画を進めていた。そして、彼はスペクターのコンセプトに対して権利を主張、そのため前述のアイディアは使えなくなってしまう。その結果、敵役は海運王ストロンバーグという『ドクター・ノオ』以来の大物イメージを踏襲したものになった。

しかし、大きな仕掛けはまだまだつづく。まずはプレタイトルシークエンス。これまたなぜかロジャー・ムーアになってからは採用されていなかったスタイルが復活。それも、その後のシリーズのあり方を決定付けるようなとんでもないスタントシーンをぶちかましてくる。前作のカースタントが「ギャグ」だとしたら、こちらはまさに「イリュージョン」。そして生まれてはじめてボンド映画を観た私を、以後38年間熱心なファンにしたのも、まさしくこの「ユニオンジャック」シーンだった。

つづいて中盤のロータス・エスプリ(これを売り込んだ営業マンの話がまた面白い)の登場。『ゴールドフィンガー』におけるアストンマーチンDB5と同様、ロータスはロジャー・ムーア=ボンドの代名詞となった。『サンダーボール作戦』ばりに水中を「潜行」して戦いながら、方向を変えるときにきちんとウィンカーを点滅させる演出には余裕さえ感じる。

最後にクライマックス。ここでは「原子力潜水艦3隻を飲み込んだタンカー内部の巨大セット」が組まれ、そのためにイギリスのパインウッド・スタジオには「007ステージ」と呼ばれる巨大なサウンドステージが建設された。これだけの規模は『007は二度死ぬ』の火山内部の秘密基地以来で、監督もその時と同じルイス・ギルバートに任された。

ここまで書いてきてわかるように、この作品には第1作から第5作までの成功要素がすべて盛り込まれている。見事な開き直りっぷりといっていいだろう。ここまでやれば失敗してもいいと思ったかどうかはわからないが、この大勝負の結果は大勝利。『ゴールドフィンガー』以来の「3本目のお祭り」となり、ロジャー・ムーアは一時代を築くことになる。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第9作『007/黄金銃を持つ男』(1974)

2015/11/13 11:30
タイトルロールと言っていい「黄金銃を持つ男」ことフランシスコ・スカラマンガを演じたのはクリストファー・リー。この人は原作者イアン・フレミングの甥でもあり、ドラキュラ役で一時代を築き、21世紀に入ると「ガンダルフ」と戦い、「ヨーダ」とも戦った人である。現存する男優としてはレジェンド級の悪役。当時としてもボンドとの対決は十分期待に値するものだったと思う。それがどうしてまたシリーズ前半最大の危機を招くような結果になってしまったのか? それにはいくつか理由がある。

最初に挙げられるのは、公開年を見てもらえばわかるとおり、前作からわずかに1年しか経っていないことだ。シリーズ初期こそ毎年のように公開されていたが、5作目以降は2年に1本のペースになっていた。おそらくはロジャー・ムーア=ボンドをできるだけ早く定着させたいという思惑があったのだろう。だが、それが作品の質に大きく影響していることは否めない。

そもそもこのシリーズはハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリの2人のプロデューサーの共同製作で、彼らはそれぞれの奥さんの名前を合わせた「ダンジャック・プロダクション」という会社を作っていた。ところがこの時期サルツマンの方が映画以外の事業に失敗し、結果的に自分が所有していたジェイムズ・ボンド映画の権利を映画会社に売ってしまうことになる。なぜか相棒であるブロッコリには売らなかったというのがポイントで、12年間9作品の2人の「蜜月」はこの作品を最後に解消してしまうのだった。つまり『黄金銃を持つ男』の製作もすでに「片肺飛行」の状態だった。

2つ目の理由は、過去2作以来の「コメディ路線」だ。ロジャー・ムーアの資質としてコメディタッチは十分に「あり」なのだが、ボンド自身のキャラクター造型は何とか「シリアス」に寄せようとしている。その代わりに周囲の登場人物たちがドタバタに徹しているわけだ。スカラマンガの手下で小人のニックナックは明らかにゴールドフィンガーの手下のオッドジョブの劣化版だし、ボンドガールであるメアリー・グッドナイトも情報部員でありながらロクなことをしない(この反省が後に生かされたことは確かだが)、そして前作に引き続きペッパー保安官(しかも今回はバンコックまで旅行に来ている)の登場。正直なところ、この作品のおすすめシーンは皆無で、個人的にも一番観ている回数が少ない。

それでもまだスカラマンガとのラストの対決が盛り上がってくれればよかった。そもそも彼にはボンドと対決する気がなく、その愛人がボンドに彼を殺させようとしていた点もこの際、大目に見よう。原作のように金メッキのリボルバーではなく、万年筆、ライター、カフスボタンを組み合わせて作る秘密兵器っぽい「黄金銃」(これはこれでギミックとしては悪くないが)もよしとしよう。またこちらは原作通り「3つ目の乳首」があるという生物学的な特徴を利用してボンドがスカラマンガになりすましたものの、すでに敵にはバレていたという展開にも目をつぶろう。

しかし、残念なことに、当初は『シェーン』のジャック・パランスを起用して「西部劇」風の一騎打ちを予定していたラストの対決は、大幅に改変され、一騎打ちどころかほとんど対決さえになっていないのだ。自分のホームグラウンドにボンドを引きこもうとするスカラマンガも卑怯だが、それに対向するボンドの手段もなんだかなあという感じ。とまあ最後の最後まで観客の期待を外してくれる稀有な作品とも言えるのだが、そのツケを1人残ったブロッコリが支払い終わるまでには実にそれから3年もかかるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第8作『007/死ぬのは奴らだ』(1973)

2015/11/13 00:53
今となっては「ロジャー・ムーアって誰?」という人も多いかもしれないが、個人的にはファースト・ボンド=ロジャー・ムーアであり、彼が持ち込んだウィットに富んだタッチこそがジェイムズ・ボンド映画というものだった。

不思議なことに初代ショーン・コネリーから二代目ジョージ・レイゼンビーのときは9歳も若返ったのに、3代目は前任者よりも12歳も年上(ショーン・コネリーと比較しても3歳年上)になり、さらにボンド在任期間も今のところ最長だ。ボンド映画以外に代表作が挙げにくい(まったく無いわけじゃない)が、ロジャー・ムーアという人はある意味で稀有な俳優だったと思う。(まだ存命中ですが)

そんな彼の第1作は、原作で言うと2冊目の『死ぬのは奴らだ』。当時はまだ『カジノ・ロワイヤル』の映画化権が手に入っていなかったので、その時点でいちばん原点に近い作品を選んだことになる。記憶が正しければ初めて日本語に翻訳されたのもこの作品で「Live and let die」(「自分は生き残り、敵は滅ぼす」といった意味)をよくぞ『死ぬのは奴らだ』と訳したものだと思う。ただ、未だにポール・マッカートニーがウィングス時代に唄った主題歌にこの邦題があてられると気恥ずかしい思いをしてしまうけど。

原作ではミスター・ビッグという黒人の敵役がカリブ海に沈んだ金貨を売りさばこうとする『パイレーツ・オブ・カビリアン』みたいな話だったが、1973年当時そのアイディアは使われず、代わりにビッグはニューヨークのハーレムとカリブ海の島を行き来して大規模な麻薬の密売を手がけている。「ダイヤモンド衛星」に比べれば犯罪の規模は小さいが、それでも2トンのコカインをタダでばらまくことで競合を潰し、中毒者を一気に増やそうという作戦は、このシリーズお得意の犯罪パターンA「価格操作」作戦だと言っていい。

シリーズ作品としての位置づけにおいても、ロジャー・ムーア版の『ドクター・ノオ』を作ろうという意識がかなり鮮明になっている。例えば、ボンドはプレタイトルシーン(仲間の情報部員の暗殺事件)に登場せず、ロンドンの彼のアパートのシーンが描かれたり、『ドクター・ノオ』で死んだ漁師のクォレルも息子が登場する反面、アストンマーチンは封印、なぜかQも登場しなかったりする。そして、何よりカリブ海の島のロケーションが原点回帰を強く主張している。

とはいえ、まだまだロジャー・ムーアは本領を発揮しておらず、特に本人も嫌いだと明言している暴力シーン(といっても可愛いものだが)、とりわけ敵側の女性に向き合うシーンの「非情さ」はショーン・コネリーやダニエル・クレイグのようにはいかなかったし、トレードマークであるワルサーPPKの代わりに『ダーティハリー』ばりにリボルバー銃を使うのも「らしくない」。この辺りはさまざまなスタイルが模索されていたのだろう。

そして、この作品の最も弱いところは、アクションシーンのクライマックスに絡んでくる「ズッコケ保安官」(あえてそう呼ばせてもらおう)ことペッパー保安官の登場だ。本来、ボンドと敵と警察の三つ巴というのは、かなり緊迫したシーンになりうるのに、ここではなぜか「ウッドペッカー」みたいなドタバタシーンに終始しているのだ。このパターンは前作のラスベガスのカーチェイスシーンからはじまり、ロジャー・ムーアの最終作『美しき獲物たち』までつづく悪しき伝統で、おそらく前回紹介した脚本家トム・マンキーウィッツが持ち込んだものだろう。ちなみにこのペッパー保安官は次回作『黄金銃を持つ男』にも登場し、同時にこのシリーズは前半の「どん底期」を迎えることになるのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第7作『007/ダイヤモンドは永遠に』(1971)

2015/11/11 17:58
前回は2代目ジョージ・レイゼンビーが主演した『女王陛下の007』が、後に再評価されるものの、興行的には振るわず、これ1作で降板してしまったところまで。

プロデューサーたちは当然のことのようにショーン・コネリーに再登板を求める。一方でボンド役にうんざりしていたコネリーは破格の条件(単にギャランティだけでなく自分が製作する映画への出資も要求)で「1作だけ」再登板を了承。ただし、当時まだ40歳のコネリーの「おじさん化」は半端でなく、同い年のクリント・イーストウッドが『ダーティ・ハリー』の1作目を撮っていたことを考えると、たった4年で「隔世の感」があった。

原作の流れからいえば、『女王陛下』から『二度死ぬ』を経て、『黄金の銃を持つ男』という原作者の「遺作」が採用されてもおかしくなかった。『二度死ぬ』でブロフェルドへの復讐を果たしたものの記憶喪失になり、なぜか「ロシア」に惹かれてそこで洗脳され、上司Mを暗殺するためにロンドンに戻ってくるという衝撃的な導入から『黄金の銃を持つ男』始まるのだが、あえてそちらには行かず、映画版『女王陛下の007』は事実上「なかったこと」になる。(7作目がいい加減な「日本」描写から始まるのはそういうことらしい)

代わりにプロデューサーたちが目論んだのは『ゴールドフィンガー』の再現だった。ちょうど作品数も「7」作目だし、辛気くさい流れは断ち切ってハデに行こうと考えたのだ。実際、ゲルト・フレーベを再登場させてゴールドフィンガーの「双子の弟」を敵役に据える案もあったというが、「ダイヤモンド好きのゴールドフィンガー」というのも変な話だ。

原作の『ダイヤモンドは永遠に』は、原作者イアン・フレミングが一方で『ダイヤモンド密輸作戦』というノンフィクションを書き、そのときの取材を元に小説も書いた。アメリカを横断して密輸ルートを解明しようという話はゴールドフィンガーに似てなくもない。

さらに映画では、大量に密輸されたダイヤモンドを人工衛星に組込んで、そこから発生させたレーザー光線で地上を攻撃するという大掛かりなアイディアがクライマックスに登場する。このアイディアはよっぽど見栄えがすると思われたのか、後年ピアース・ブロスナンの時代になって第17作『ゴールデンアイ』(ここではダイヤモンドは使われないがロシアの軍事衛星が電磁パルスを発生させる)、そして第20作『ダイ・アナザー・デイ』では「ダイヤモンド衛星」というまったく同じコンセプトの兵器として登場する。(それを観たとき、当然のことながらこう思った──スペクターが30年前に打ち上げた衛星を再利用することを考えた方が早かったんじゃね?)

このように、少なくとも前作の雪辱を晴らす準備は万端で、世界でも日本でもヒットはしたのだが、中身はどうも面白くない。70年代前半という時代背景もあったのかもしれないが、この作品から3作連続で脚本に参加したトム・マンキーウィッツという人にも原因はありそうだ。この人はどうやらコメディタッチが得意らしく、コネリーの体型同様、話もすっかり「だらしなく」なってしまった。

運び屋の男を殺して、そのポケットに自分のプレイボーイ・クラブのメンバーカードを忍ばせ、「あんた、ジェイムズ・ボンドを殺してしまったのよ!」とボンドガール(当時キッシンジャーと噂があったというジル・セント・ジョン演じるティファニー・ケイス)に叫ばせるセルフパロディ的なシーンなど、今見ても愚の骨頂だとしか思えない。

興行的に一息ついたものの、コネリーは去ってしまい、ボンド役者探しはさらに続くのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第6作『女王陛下の007』(1969)

2015/11/10 10:28
ショーン・コネリーが降板した後、2代目を襲名したのがジョージ・レイゼンビー。知らない人はまったくご存じない名前だろう。代表作はこれ1本といってよく、出演作さえ数えるほどしかない。原作者イアン・フレミングがアメリカのテレビドラマ向けに「原案」を作った『0011ナポレオン・ソロ』シリーズが15年ぶりに復活した際のスペシャル版で「JB」という意味深な役柄を演じ、アストンマーチンDB5に乗っていたくらいだ。(思えばロジャー・ムーアも『キャノンボール』でDB5に乗っていたから、歴代のボンドでDB5と縁がないのは4代目ティモシー・ダルトンだけということになる。ちなみに「ナポレオン・ソロ」はリメイク映画『The Man from U.N.C.L.E.』が今年公開される)

だからといってこの作品は絶対に無視できない。たった1本だがジョージ・レイゼンビーはシリーズ屈指の作品を引き当てたのだ。前回も書いたように、原作ではこの作品の後に『007は二度死ぬ』が来る。「二度死ぬ」は本来「女王陛下」の後日談で、ブロフェルドに対するボンドの復讐譚だった。ダニエル・クレイグが演じた第21作『カジノ・ロワイヤル』と第22作『慰めの報酬』の関係に似ているといってもいい。しかし、当時は映画化順が逆になってしまったため、「二度死ぬ」はかなり自由な(悪くいえば荒唐無稽な)作品となり、それを反省したように大きな揺り戻しがやってくる。

ポイントの一つは2代目ボンドの描き方。当初はボンドが「整形手術」を受けた設定にする案もあったようだが、結局そうした言及はなく、その代わり過去のシリーズを回顧するシーンがいくつか出てくる。アストンマーチンはDB5からDBSに代わり、監督もこれまで編集や第2班監督を務めてきたピーター・ハントが抜擢された。賑やかしの美女たちはともかく、ボンドガールも1人に絞られて、ロマンスの要素が非常に強くなっている。

2つ目のポイントは原作への回帰。原作そのものが「ブロフェルド追跡行」や「大掛かりなスキーチェイス」とアイディアに溢れた、バランスのいい作品だったこともあり、シリーズの原点である原作小説への回帰は非常にうまくいっている。そして、何よりこの作品ではボンドの「結婚」が描かれるのだが、個人的な意見としては、仮にショーン・コネリーが6回目の登板をしていても、前作の「偽装結婚」がせいぜいで、この作品で描かれたような真剣な恋を演じるのはムリだった気がする。『ロシアより愛をこめて』の直後ならともかく『ゴールドフィンガー』以降世界的なアイコンになってしまったコネリー=ボンドよりは、(少々青臭い)新人ボンドにこそ相応しい作品だったと思う。

しかし、残念ながら演技経験もほとんどなかった新人が担うにはテーマが重すぎた。実際に興行成績が振るわなかったこともあるが、撮影中からジョージ・レイゼンビーの評判はあまりいいものではなかった。結局のところ、彼は自分がつかんだ幸運とどう付き合っていけばいいのかわからないうちに、舞台から降ろされてしまったのだ。

この後、シリーズは第10作『私を愛したスパイ』でロジャー・ムーアのスタイルが確立されるまでさまざまな試行錯誤がつづく。原作における「ブロフェルド三部作」も映画版では十分に消化されずに終わってしまい、その後は裁判沙汰になって、使いたくても使えないキャラクターになってしまう。

『カジノ・ロワイヤル』という難しい作品を乗り越えてボンドを襲名し、『スカイフォール』で3作目の「お祭り」を経験したダニエル・クレイグが、最新作『スペクター』でついに映画版「ブロフェルド三部作」のリベンジに挑むのだとしたら、これほどの楽しみはない。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第5作『007は二度死ぬ』(1967)

2015/11/09 10:26
実にすごいタイトルだが、『危機一発』みたいに日本で創作したものではなく、原題の「You Only Live Twice」(執筆前に来日した原作者イアン・フレミングが松尾芭蕉に倣って作った「俳句」の「上の句」)をいい意味で意訳している。今じゃこの訳は生まれないだろう。

本来、『サンダーボール作戦』の次回作は『女王陛下の007』のはずだった。原作もその順番で「ブロフェルド3部作」といえる展開を示す。それが『007は二度死ぬ』が一つ繰り上がったのは、前作までのシリーズの日本における爆発的なヒットが理由にあったといわれている。(まあ、『トランスフォーマー』が中国を舞台にするようなものだろう)作品の公開がはじめて前作から2年のインターバルが開いたので撮影は1966年。まさにビートルズと前後して、007の撮影スタッフとショーン・コネリーも来日していたのだ。

日本での撮影に協力したのは「東宝」。男優として丹波哲郎、そしてボンドガールとして浜美枝と若林映子の2人が出演していることはご存知の方も多いだろう。丹波哲郎はいうまでもなく、女性2人は東宝のプログラムピクチャー(クレージー・キャッツ、国際秘密警察シリーズからゴジラまで)に多数出演している。

正直なところ、プロデューサーたちの目論見は外れたといった方がいいかもしれない。確かにヒットはしたが、ジェイムズ・ボンド映画の日本における人気に水を差してしまった感じがある。理由の一つはショーン・コネリーが「カツラ」を使用していることがバレてしまったこと、もう一つは、日本を舞台にした「トンデモ映画」に仕上がっていたことにある。海外の観客にはエキゾチックな雰囲気がウケるようだが、個人的にも初見時に「メッキがはげた」印象を持ったことは事実だ。

とはいえ、特別日本に関する理解が低かったということではなく、そもそもジェイムズ・ボンド映画はこうやって作られているのだと考えれば、むしろ興味が湧いてくる。ホテル・ニューオータニが「オーサト産業」ビルになり、出来たばかりの丸の内線は秘密の地下移動列車として使われ、九州の「新燃岳」の火口の下に犯罪組織スペクターの目を奪われるような巨大な秘密基地がある。そして、そこに乗り込むのは姫路城で訓練した日本の忍者部隊である。この作品以前も以後も、こんな風にして各国の名所が活用されてきたのだ。

さて、この作品で見逃してならないのはスペクターの首領ブロフェルドがついに登場することだ。演じるは『刑事コロンボ 別れのワイン』で(の方が?)有名なドナルド・プレザンス。本来出演するはずだった俳優の代役だったこともあり、当時も今も「期待した割には」という感じが否めない。映画版のブロフェルド3部作は以後、役者が全部変わる。

今回のスペクターの犯罪は初心に返って「漁夫の利」作戦。米ソの宇宙船をそれぞれ拿捕して両者を緊張状態に追い込もうとする。第10作『私を愛したスパイ』では宇宙船を原潜に置き換えて似たような展開を見せ、今回は残念ながら宇宙に行く寸前でストップをかけられてしまったボンドは第11作『ムーンレイカー』でようやく地球を飛び出すことになる。これら3本を手掛けたのが同じルイス・ギルバートという監督だ。

この作品を最後にショーン・コネリーは(一旦)ボンド役を降板。次回作で一度「原点」に戻ろうとする反動があったものの、原作から大きく逸脱してでも、時代に合わせたストーリーやアクション、そしてロケーションを取り入れる。そして、製作ペースは1年に1本から2年に1本とし、より大作感を強調していこうという新たな「シリーズの方向性」はこの『007は二度死ぬ』辺りから生まれて、その後も脈々とつづいていくのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第4作『007/サンダーボール作戦』(1965)

2015/11/07 10:33
爆発的ヒットとなった『ゴールドフィンガー』に続く第4作目は『サンダーボール作戦』──どちらも実に「響きのいいタイトル」です。

この作品からついにシネマスコープサイズになり、さらにスケールアップ。「画面2倍、面白さ3倍のシリーズ第4弾!」というのが日本でのキャッチコピーだったはず。『ゴールドフィンガー』の日本公開が1965年のGWになったため、この年には年末の『サンダーボール作戦』と共に2本のシリーズが公開されることになった。冬場で観客がコートさえ着ていなかったら、もっと客が入ったはずだと劇場主が嘆いていたらしい。

その後1983年にロジャー・ムーア主演の第13作『オクトパシー』と、ショーン・コネリー主演の「番外編」『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』が「激突」するという奇跡の年があったが、後者は『サンダーボール作戦』のリメイクである。

そもそも『サンダーボール作戦』は、原作者イアン・フレミングが何とか自身の「007号シリーズ」を映画化したいと考え、ケビン・マクローリーという男と組んで脚本まで書き上げたものの、映画化の企画がポシャり、そのプロットを使って勝手に小説を書いてしまったため裁判沙汰になった。その後、映画シリーズが大ヒットしたので、再びマクローリーが映画化を目論んだが、共倒れになることを危惧した「イオン・プロダクション」が共同で制作することを申し出たようだ。というわけで、この作品の「プロデューサー」の肩書はマクローリーになっている。

その後、彼は「今後10年間はリメイク権を行使しない」という条件に縛られて、しばし静観していたのだが、あっという間に10年が経って再び動き出す。その流れが最新作の『スペクター』にまで関わってくるのだが、それはまた別の話。

さて、今作は第2作と同様、犯罪組織スペクターが総力を上げて攻めてくる。NATOのバルカン爆撃機を強奪して、そこに積まれていた2基の核爆弾でイギリスとアメリカを脅迫してくるという大胆な話。確か3億ポンド分のダイヤモンドを要求し、それを呑む場合は「ビッグベンを6時に7回鳴らせ」と連絡方法を指定してくる。

中盤以降はほとんどがカリブ海のバハマを舞台にしていて、とにかく水中撮影がすごい。3作目を飛ばして監督に復帰したテレンス・ヤングは「水中アクションはトロくてダメ」と言っていたらしいが、水中での連絡手段も限られていた時代に、見事なまでに「設計」されたアクションシーンはとんでもない出来栄えだったと思う。

ただし、これまでも述べてきたようにスペクターの作戦はその巧妙さを信条としてきた。それに比べて今回の作戦は少々前面に出すぎて、強引すぎるきらいがあることは確かだ。(ちなみに「サンダーボール作戦」とはスペクターではなくイギリス情報部の作戦名で、大会議室に00ナンバーを持つ9人が揃うシーンがある)

また恒例になったプレタイトルシークエンスには、1984年のロス五輪の開会式に登場した「ジェットパック」が20年も先取りして登場する。それを見たフランス支局の女性情報部員が「とても実用的ね」と一言言うのだが、1970年代にTBSで放送された日本語吹き替え版で、このセリフが「ダンディ専科の小道具ね」と訳されていたのが個人的には忘れられない。「ダンディ専科」という“死語”が、実にいい雰囲気を出していた。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第3作『007/ゴールドフィンガー』(1964)

2015/11/06 12:19
前作『ロシアより愛をこめて』も有名だが、ルパン三世にも同じタイトルの作品があったし、他にも似たようなネーミングが多いので、案外007シリーズということを知らない人が多いかもしれない。その点では『ゴールドフィンガー』の方が正しく認識されているような気がするが、違うだろうか?(パロディ映画『オースティン・パワーズ』の第3作が「ゴールドメンバー」だったことは、もはや誰も憶えていないだろう)

まずはこの作品をもって007シリーズの人気が不動のものとなったといっていい。(私の父親もこれだけは観たといっていた)理由の一つはアメリカが舞台になっている(とはいってもかなりの「田舎」だが)こと、そして言わずと知れたボンドカー「アストンマーチンDB5」が登場したことにある。またタイトルロールであるゴールドフィンガーの、何というか仇役としてのスケール感も大きく寄与している。(演じたゲルト・フレーベというドイツ人男優は英語が喋れなかったので、全編英語で吹き替えられている)

ストーリー的にも、前作同様、非常に巧妙な仕掛けがしてある。前作の犯罪組織スペクターが@「漁夫の利」作戦を得意とするなら、すでに十分に「金」を保有している大富豪ゴールドフィンガーがとった作戦は、原作のようにフォートノックスに貯蔵されている金塊を大胆に「強奪」するのではなく、それらを「核汚染」させて相対的に自分の金の価値を上げようとする、いわばA「価格操作」作戦なのである。この2つのパターンが以後のシリーズで頻繁に使われる敵の計画になる。(正確には金塊貯蔵施設としてはフォートノックスより、NYの連邦準備銀行の方が貯蔵量は多いらしく、その点では『ダイ・ハード3』の方が正解だ、という話をどこかで聞いたことがある)

この作品は当然のことながら、コネリー=ボンドの3本目でもあるわけだが、面白いことに3代目ロジャー・ムーアの3本目『私を愛したスパイ』(ボンドカーは海中潜行可能なロータス・エスプリ!)も、6代目ダニエル・クレイグの3本目『スカイフォール』(ボンドカーは何とふたたびアストンマーチンDB5!)も、内容的・興行的に前作から「一皮むけた」作品になっている。それ以外の3人のうち、ジョージ・レイゼンビーとティモシー・ダルトンは残念ながら3本目には至らず、5代目ピアース・ブロスナンがかろうじて「一皮むけた」といえるのは4本目にして第20作『ダイ・アナザー・デイ』になってからで、同時にそれが引退作品になってしまった。

結論めいたことをいえば、出演3本目にして、ある種の「お祭り」作品に出会ったボンド役者こそ、一時代を築いたということなのではないだろうか? そういう意味でクレイグ=ボンド作品が継続している現在は、観客にとって非常に幸せな状況だといっていい。

ちなみに高校の頃、池袋にある昔の「文芸坐」で、初期のシリーズ12本が配給期限切れになる寸前の最後の興行で『ゴールドフィンガー』を観る機会に恵まれた。作品中、彼がフォートノックスを襲撃する作戦名は「グランドスラム作戦」なのだが、日本での公開当時(あるいはリバイバル当時も)「グランドスラム」という言葉は馴染みがなかったためか「満塁ホーマー作戦」と字幕で訳されていたのが懐かしい。(ホームランでもなくホーマーというところがいい)

それから、原作の時点ですでに3人のボンドガールが描かれていたせいか、前2作に登場した“レギュラー”ボンドガールのシルビア・トレンチがいなくなり、代わりに武器装備係のブースロイド少佐が晴れて「Q」と呼ばれるようになる。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第2作『007/ロシアより愛をこめて』(1963)

2015/11/05 10:02
映画史的にシリーズ最高の評価を得ている(多分『スカイフォール』後の現在でも)のが、この第2作目。原作小説はなぜか「ロシアから〜」と訳され、日本初公開時のタイトルは『007危機一発』(ユナイト映画宣伝部時代の水野晴郎がつけたとかつけないとか)というテストで間違えそうなタイトルだった。

ショーン・コネリーが「黒豹」みたいに精悍だったのは、この作品と、後は『わらの女』とか『マーニー』あたりまでで、次回作『ゴールドフィンガー』ではすでに「中年化」がはじまっていたような気がする。(とはいってもまだ30代前半なのだが)

対するボンドガールはタチアナ・ロマノバというソビエトの女性を演じたダニエラ・ビアンキというイタリア人女優で、前作とはまったく違うタイプ。ダニエラ・ビアンキはおそらくこの映画1本だけで語られる女優で、ほかにはショーン・コネリーの弟のニール・コネリーが主演した『ドクター・コネリー/キッドブラザー作戦』というイタリア製パチモノ映画しか観たことがないが、この作品での「色気」は長いシリーズの中でもダントツ。

ボンドガールの魅力に加え、ロバート・ショウ演じる殺し屋グラント、それにオリエント急行を利用した脱出劇の3点が、この作品を「不朽の名作」と呼ばせる大きな理由なのだろうが、シリーズ的には「犯罪組織スペクター」が前面に出てきた最初の作品であることに注目しておきたい。

前作の「ドクター・ノオ」もスペクターの一員だったが組織そのものは描かれず、2作目になってはじめて、顔を見せないリーダー(のちのブロフェルド)、作戦立案者クロンスティーン(チェスの世界戦の最中に招集を受けると、次の一手でチェックメイトを決めてしまう)、実行責任者ローザ・クレッブ(シリーズ最強のおばさんキャラ)など多くの人間が暗躍する計画が描かれる。

原作ではスペクターという組織は『サンダーボール作戦』で初めて登場し、それより以前に書かれた『ロシアから愛をこめて』には出てこなかった。ややこしいことに『ロシアから愛をこめて』に出てくるスペクターというのはロシアの「暗号解読機」の名称なのだ。そのため映画ではレクターという名称に変えられている。

その後、『サンダーボール作戦』の映画化権を巡る非常にややこしい訴訟事件が起きたために犯罪組織の名称としての「スペクター」は使えなくなってしまい、第7作目を最後に登場しなくなってしまう。だから、今年公開される第24作のタイトルが『スペクター』だと発表されたときには、世界中でそれなりの人数の人々が、一様に驚いたのだった。

犯罪組織スペクターの最大の魅力は、巧妙に「漁夫の利」を得ることにある。今回も原作ではイギリスとソビエトの情報部同士の戦いとして描かれていたものが、その対立構造をスペクターが利用し、両者を巧みに操ってレクターを手に入れようとする。それによってストーリーは一段と面白さを増し、同時に作品から「政治性」も排除できた。

見方によっては黒澤明の『用心棒』を裏返しにした(三船ではなく、仲代達矢の立ち位置にボンドがいる)といえないこともない。いずれにしても脚本レベルですでにこの作品はシリーズ最高水準にあり、またこの同じモチーフが以降も何度も使われることになる。

果たして最新作の『スペクター』はどういうことになるのだろう? 首領ブロフェルドのことらしいオーバーハウザーという男が、ボンドの両親を殺した相手だったという程度の安易な設定や、ボンド映画の「ハリー・ポッター」化は慎重に避けてもらいたいものだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


【ジェイムズ・ボンド映画の基礎知識】第1作『007/ドクター・ノオ』(1962)

2015/11/04 11:21
007シリーズを第1作目から順番にいえる人はあまりいないと思うのだが、最初の作品が今から53年前の『ドクター・ノオ』。日本での初公開時はユナイト映画宣伝部がつけた『007は殺しの番号』(まさに言い得て妙)というタイトルで公開され、リバイバル公開時に原作・原題通りの『ドクター・ノオ』に変わった。「NO」というのは敵役の名前なのだが、これを「ノー」でも「ノウ」でもなく「ノオ」と訳したのはもっと評価されていい。

上司のMと、その女性秘書マネペニー、のちのQと呼ばれるブースロイド少佐など、当初からシリーズ化を念頭においたファミリーがすでに登場してくるが、それ以外にシルビア・トレンチというボンドの“女友達”もレギュラー化を予定していたらしく、次回作『ロシアより愛をこめて』でも彼女は登場してくる。

しかし、「ボンドガール第1号」として語り継がれたのは、アーシュラ・アンドレス演じるハニー・ライダーの方で、彼女は作品の後半、舞台が「蟹ヶ島(クラブ・キーという島の名前をこう訳すセンスがいい)」に移ってから登場する。

カリブ海の浜辺で、貝を取ってきた彼女が海から上がってくるシーンはことに有名で、第20作『ダイ・アナザー・デイ』でオスカー女優のハル・ベリーが「再現」している。ただし、注目したいのは、単にそれが「美女登場」のシーンとなっているだけではないことが凡百の追随映画とは大きく異なっている点だ。

ケープ・カナベラル基地でアメリカが準備しているロケット発射を妨害しようと企むノオ博士の本拠地がクラブ・キーにあると睨んだボンドは、レーダーに引っかからないようにボートの帆を降ろして島に接近する。ところが一夜明けて、ハニー・ライダーがいつものように帆を張って島にやってきたものだから、ボンドたちの侵入がバレてしまうのだ。

『ドクター・ノオ』ではさらにもう一人、ミス・タロという中国系の女性が登場するが、彼女は完全に敵側の人間。すでに第1作目からボンドを取り巻く女性たちの「基本配置」は固まっていたといっていい。

原作者のイアン・フレミングは英国の作家で、イギリス連邦のジャマイカに「ゴールデンアイ」という別荘を持ち、そこで毎年休暇中に新作を書いていた。だから原作にはカリブ海が登場する作品が多い。

映画も同じく第1作にはじまって、第4作『サンダーボール作戦』、第8作『死ぬのは奴らだ』、第16作『消されたライセンス』、第20作『ダイ・アナザー・デイ』、第21作『カジノ・ロワイヤル』など、歴代のボンド役者ごとに1回は作品の舞台として登場してくる。

シリーズ全体として、カリブの海と太陽のイメージと、ヨーロッパの閉塞感と陰謀渦巻くイメージの「対比」が効果的に使われているのも魅力の一つなのだ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


<<  2015年11月のブログ記事  >> 

トップへ

パワードブック・ダイアローグ 2015年11月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる